はじめまして。

アズ直子です。
 
 トラウマ・コンプレックス・怒り・悲しみ・・・


マイナス感情を飲んで癒す「フラワーエッセンス」

私が「フラワーエッセンス」の販売者として仕事をはじめたのは1998年。

一人娘のなつきが生まれたころです。

あれから10年。

何万本ものフラワーエッセンスを、
インターネットやお取引先を通じて全国にお届けしてきました。

悩みや苦しみを抱えている、お客様の心を癒すために。

でも、そうしたことを生業とするものに対して、
神様は宿題を出すことを忘れませんでした。

フラワーエッセンスと向き合ってきた10年は、
他でもない、私自身のマイナス感情やネガティブ思考と向き合う10年でもありました。

「どう考えてもお日様の下を歩けていない」

そう思うくらいの、マイナス100のどん底状態から、
這い上がって、這い上がって、

やっとゼロにたどりつくことができた。

あなたの話を聞かせていただく前に、

私という人が、どんな人なのか、

どんな思いでフラワーエッセンスを扱いお届けしている人なのか、

私の話を聞いてください。
 
 ◆  幼少期

私は1971年、ピンクレディーやキャンディーズの時代に、

東京の調布市に生まれました。

成城学園前と仙川駅のちょうど中間に位置する静かな住宅街。

厳格な祖父母と、美しいけれと厳しい母。
そしてほとんど口を利かない研究者である父。

私は生まれたときにひとつの病を持っていました。

それは重度の「斜視」。

左目を動かす筋肉がとても弱く、
右目と左目がいつも違う方向を向いている、
病的な、異様な顔立ちでした。

祖父母と両親の愛情を受けて順調に育っていきましたが、

いつも顔立ちのことをからかわれることは、
幼心にとても辛かった。

3歳のときに弟が生まれ。
6歳のときに妹が生まれ。

そしてその妹も病を抱えて生まれてきました。

「ダウン症」という遺伝子の異常からくる障害。

心臓にはいくつも穴が空き、知的障害も伴います。

母の修羅場のような育児が始まりました。

妹は30歳を過ぎた今でも元気にしていますが、
なにせ当時は2歳で死ぬと言われていたのですから。

父の仕事の都合で、東京から湘南の鵠沼海岸に引っ越し、
私が小学校にあがるころには、

母の関心はすっかり妹にとられ、

さびしかったった。


またこのころ、大人になってから分かったもう1つの障害のため、
私はとても苦しい学校生活を送っていました。

学校特有のにおいに、毎日頭痛と吐き気を起こし、
アトピーのような皮膚疾患をたくさん起こしていました。

なぜかいつもクラスで浮いた存在になってしまい、

それを母に訴えることもできないまま、

私はすっかり孤独で不器用な子どもになってしまいました。
 
 ◆ 思春期

中学に上がり、私の支えになっていたのは「勉強」でした。

同じことをコツコツ繰り返すことが得意だっだので、
暗記中心で済むこのころの勉強では、
成績は常にクラスでもトップクラス。

斜視は相変わらずそのままの状態だったので、
「顔はおかしくても頭はいい」ということが支えだったのです。

それでも、
からかいが絶えないことを、母が不憫に思ったのか、

14歳の夏に斜視の手術を受けて、視線を正常に戻すことができました。

でも、

手術のために入院した大病院で、
私は医師からひどい暴力を受けていたのです。

14歳の理解を超えた暴力に、
その場で心が傷つくと言うよりも、

まず呆然とし、

大人になるにつれて、その意味が分かるとともに、
何年も何年もかけて、
心はゆっくりとつぶれていきました。

その後また東京に戻り、

進学校に進みましたが、

みんなが勉強ができるという環境に、自分の存在価値も見失い、
さして明るい思い出もなく高校生活を終え、

1年浪人してから、大学へと進みました。






◆ 大学 留学 ひとときの幸せ

緑豊かな武蔵野に位置する東京学芸大学で、

専攻の言語学の他に、2つ夢中になれるものを見つけました。

ひとつは大学受験のために予備校で習い始めた「小論文」。

大学入学後も、予備校の授業にもぐりこみ、
今は大学今日中になっている講師の先生を追いかけて、

人の10倍20倍の文章を書いて、

ものの考え方、掘り下げ方、表現の仕方を、
徹底的に学びました。


もうひとつは、「中国語」。

英語も韓国語も、いくら勉強しても頭に入らなかったのに、

大学の第2外国語だった「中国語」だけはのめり込みました。

毎日3時間以上の発音練習、
自給1800円も払って、中国人留学生からネイティブの会話を学びました。

中国にも何度もフェリーで渡り、
一か月5万円の貧乏旅行で各地を見て回りました。

昼間は家庭教師、夜は水商売で留学資金と旅費をため、

そしてある程度中国語を身に付けた時点で、
200倍以上の競争率を突破して奨学金を勝ち取り、

1993年から95年まで北京に国費留学生として派遣されました。


全寮制の大学で、ロシア人のルームメイトと暮らし、

昼間は大学で勉強漬け、夜は専門学校で日本語教師。


勉強して勉強して、

北京の全てを吸い込むような勢いで、

楽しかった。

そして現地に駐在員として派遣されてきていた、
10歳年上の主人と知り合い、

ともに帰国後、結婚しました。
 
 ◆ 結婚・就職・介護鬱

私が結婚したのは24歳。

まだ日本の大学を卒業していないころから話は進みました。

卒論、大学卒業、就職、そして結婚。
これほど落ち着かない環境で結婚を急いだのにはわけがありました。

主人の母親が末期がんに侵され、余命を宣告されていたのです。

結婚することで、安心させてあげたかった。


でもこのころから、私の心身はまたゆっくりと弱り始めました。

慣れない新生活。

家庭でも、家事がまったくできず、物は散乱し外食ばかり。

はじめての職場でも人間関係がうまくいかず、
出社することすら苦痛でした。

そして仕事が終わったあと、
そのまま電車で2時間以上かかる病院に行く介護生活。

病院に向かう足取りはだんだんと重くなり、
電車に乗ると強い吐き気に襲われるようになりました。

やがて一駅、一駅、降りては休むようになり、

抗鬱剤を出されるほどの「介護鬱」に陥っていました。

義母がいよいよ弱って、さらに遠いホスピスに入るころには、
ろくに病院にも行かれない状態になりました。

義理とは言え、死に瀕した母親を見舞うこともできない罪悪感。

まさにこのころです。

病院の薬品の臭い、病人特有の体臭などに辟易していた私は、
アロマセラピーの情報を集め始めました。

そしてそのすぐ近くにあったフラワーエッセンス、
「バッチフラワー」を知ったのです。

すぐに買い求め、すがるように使い始めました。

あまりにもストレスが大きく、
当時は「少しはすっきりするかな?」くらいの変化しか感じませんでしたが、

それでもお守りのように持ち歩き、使い続けました。


医師が宣告したよりもずっと長く義母は生きて、
そして亡くなったあと、

最後まで持っていた手帳が見つかりました。

最後に書き残したことは何だろう?

もう書く力もなくよれよれの文字を読み拾い、

それが「私の誕生日」だと知ったとき、


私の心は完全につぶれました。

自分は人でなしだ、という強い罪悪感です。
 
 ◆ 歯車が狂い始める

義母が亡くなり、

介護のために散々休んでしまった会社もリストラにあい、

その後娘が生まれました。

育児に専念すればよかったものの、

心が壊れてしまっていた私は、

家庭にもどこにも居場所がないように感じて、
さまよいはじめました。

娘は保育園や実家に預けて、
ほとんど育児放棄の状態。

夜な夜な繁華街で飲み歩き、

酒、タバコ、夜の世界のたくさんの誘惑に、
からめとられていきました。

そこでつながっていったのは負の人間関係。

そのうち、暴力や犯罪まがいのことなど、
一介の主婦にしては禍々しすぎる体験もしました。


究極にネガティブになっていた私が、
負のエネルギーを引き寄せていたのです。

そして、家庭を壊しかねない事件が起こり、
心身を強烈に痛めてしまった後、

さらにネガティブな感情を抱えながら、
徐々に夜の世界から身を引いていくことになりました。

ただこのとき、ひとつの救いがありました。


義母の介護のときに見つけた「バッチフラワー」。


ふとしたご縁で、輸入元にも勤めることがかない、
毎日毎日エッセンスに触れて、
会社を通じて全国への営業展開も始めました。


また、「これは必ず私のものになる」という確信があったので、
すぐに当時はまだ少なかったネットショップを自身で開き、

お客様からの質問には、本をめくりながら必死で応える形で、
バッチフラワーの販売者となりました。

売り上げは順調に伸びて、完全な起業独立を果たしました。


もしこのことがなかったら、

間違いなく家庭も崩壊し、私の人生は夜の繁華街に沈んでいたに違いありません。

かろうじてつかんだ光のひとすじでした。
 
◆ 復活

バッチフラワーでの仕事を順調に育てつつ、

それでもまだ様々なネガティブ思考に陥っていた私に、
また大きな転機がやってきました。

娘の耳がほとんど聞こえなくなってしまったのです。

繰り返していた中耳炎が悪化したためでした。

さすがに青ざめ、

「これはこちらを向けという、娘の体をはった訴えだ」と思った私は、

すぐ市内の耳鼻科に通院を始めましたが、
半年以上たっても、聴力はなかなか回復しません。

私は薬漬けになっていくことに疑問を感じ、
薬をできるだけ使わない治療法を探し始めました。

そしてこうした症状にアレルギーが関係するという情報を見つけ、
薬を使わずにアレルギーを除去する治療法にめぐりあったのです。

横浜から静岡まで、毎週車で通い詰め、
半年もたたないうちに娘の耳は完治しました。

同時に、何年も痛めつけてきた娘と、
そして自分自身の心のケアをバッチフラワーで丁寧に行いました。

気がつくと、病弱で病院にばかり通っていた娘が、
小学校に通うころには全ての症状が消え、

毎年皆勤賞を取るほど、丈夫な子どもになりました。

私自身も、ようやく育児に専念して、「楽しい」と思えるようになったのです。


もうひとつよい出来事がありました。

長年のめちゃくちゃな生活習慣がたたり、
ひどい胃潰瘍になりました。

バッチフラワーを扱う医師のもと完治し、

ただし「頭ばかり使って体を動かさないと、再発する」というアドバイスに、

どうせならと、体を動かすアルバイト的な仕事を探し始めました。


そして見つけたのが介護です。

どうしてとんとん拍子にうまく展開したのか分からないのですが、

気がつくと、介護ヘルパーの資格を取り、
研修先の老人介護保健施設への就業が決まっていました。

ほとんど毎日、5〜6時間の勤務。


車いすを押し、支え、付き添い、食事、排せつの介助。

何十人もの体の不自由な高齢者を洗い続ける入浴介助。


それが楽しくてしかたなかった。

介護が嫌で鬱にまでなったのに、
奇跡がひとつ起こったようでした。

体力も気力も回復し、

毎日毎日人に触れることを通じて、
私は自分の手が日に日に変わっていくことを実感しました。

人のために何かができる手になったという実感です。





2年間勤めたころ、昔ではありえなかった、
素晴らしい方々との出会いがあり、

フラワーエッセンスの販売者という本業一本に戻ることにしました。

多くの高齢者が体だけではなく心も病んでおり、
また激務に燃え尽きてどんどん辞めていく介護職員のためにも、

フラワーエッセンスの仕事を大きく育て、
今度はそれを持って介護の現場に帰りたいという思いもあっての決断でした。

 
◆ アスペルガー症候群

介護職についている終盤。

私がどうしてここまで荒れた苦しい経験をたくさんしなければいけなかったのか、
ひとつの原因が分かる出来事がありました。

音や光、においに敏感で、気分不快を起こしやすい。

人の言うことを、それが相当に非常識なことでもうのみにしてしまう。

思ったこと感じたことを、そのまま口にしてしまう。

常識を常識と理解できない。突飛な行動を恐れもなくとってしまう。

何かに集中すると、食事も取らない、人の声も聞こえない過集中に陥る。
反対に興味のもてないことには全く関心を示さず、取り組まない。


ある講座で、もしかしたら私の脳の構造には、
人とは違う個性があるのかもしれないと思い当たる情報を得ました。

それが「アスペルガー症候群」でした。

早速、病院でたくさんの検査を受け調べた結果は、

「ADD(注意欠陥症候群)を伴ったアスペルガー症候群」という診断でした。


これまでの「生きづらさ」に原因があることが分かった安堵感。

「アスペルガー症候群」にはネガティブな側面ばかりではなく、
インスピレーションや創造性が豊かであるというポジティブな面もあります。

ビルゲイツやアインシュタインなどもそうであったと言われる、
「天才病」でもあるのです。

もしも自分をうまくコントロールできれば、
何か人並み外れたことができるのかもしれないという、
自己肯定感と、可能性への希望。

ようやく、自分を少し好きになれた。

うまくいかなかったのは、仕方がなかったんだ。

いままでの経験を「受容」できた瞬間でした。
 
 
◆ ミッション

私がここまで情けない、自分の経験をお話しているのは、


ひとつは、皆さんの「心」を変えうる、
フラワーエッセンスをお届けするに際して、
どんな人の手からそれがやってくるのか、
正直にお伝えしたいということ。

もうひとつは、

もしかしたら皆さんの中には、
私と同じように、悩み苦しんで、ここに来て下さった方もいるのかもしれない。

私はそのお気持ちを自分の体験から共感をもってお聞きすることができるかもしれません。

自分が苦しくて苦しくてたまらなかったとき。

私はインターネットの中にも救いを求めました。

「助けて」と検索に打ち込んだときに、


「パソコンお助け教室」が出てきてしまったときの、あの情けなさと落胆。

経験は違っても、あの体中がマイナス感情でいっぱいで、
のどもとまでいつも何かこみ上げているような感覚。

自分のことのようにお伺いできるかもしれません。

マイナス100から、這い上がって這い上がって、
ゼロにたどりつくこと。

私はどんな人にもできると思っています。

そしてゼロにたどり着けた後、

もっと素敵なこと、もっと楽しいこと、
経験して100にも200にも進んでいくこと、

幸せになっていくこと。

これもどんな人にもできると思っています。

でも、ひとりでは辛い。
応援が必要です。


吐き出して楽になる、それだけでも変化は起こります。


そしてもしもフラワーエッセンスを私の手からお届けすることができたら、
皆さんの「心」に触れたものの責任をもって、
いつも、いつも、応援したいと思っています。


どうして私が、あれほどまでにさまよい、傷つかなければならなかったのか。

介護施設での経験も踏まえて、


「本当に愛と癒しの必要な人に、まだそれが届いていない。」


という確信を私は持っています。

私のミッションは、

「本当に愛と癒しの必要な人に、それをお届けすること。」

それはフラワーエッセンスであったり、
インターネットの中でのこうした出会いであったり、
本当にお目にかかる機会であったり。

いずれにしても、私は私にできる方法で、
会いと癒しを必要な方の隅々にまでお届けすることが自分のミッションと考えています。


長い話を聞いてくださってありがとうございます。

今度は、あなたの話を聞かせてくださいね。


つながって、いきましょう。


アズ直子でした。



 







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